「書く」ことは特別な意味を持つ行為である。
我々メンヘラは「病めばツイート」する傾向がある。
ちなみに僕が若いころは「病めばmixi」だった。
次第に少なくなっていくコメントを目の当たりにしながら、それでもなお病んだ日記を書き続けたあの日々。
なにが僕をそうさせたのだろうか。
きっと「書く」ことそのものに重要な意味があったのだと思う。
「書く」という行為によってもたらされるもの

より重要なことは、書かれた言葉によって私たちは、みずからのなかで起こっていることをより深く理解するということである。現実、あるいは想像上の出来事を記録するとき、作家は経験の諸相に名前をつけ、それらを言葉という永続的なものにすることによって、消えゆく経験の流れを止めるのである。そして、韻文や散文の一節を読み、繰り返すことで、そのイメージや意味を味わい、それによって、私たちがどのように感じ、私たちが何を考えているのかを、より正確に理解できるのである。うつろう思考や感情は、言葉によって、明確な思考や感情へと変化する。
『クリエイティビティ フロー体験と創造性の心理学』 世界思想社 M・チクセントミハイ著 浅川希洋志監訳 須藤祐二 石村郁夫訳 P267
これは「創造的な人々」についての研究をまとめた書籍からの引用である。
「創造的な人々」のなかには著名な作家も多く含まれており、その説明の一環として「言葉」について考察されている。
この引用のうち、
「 書かれた言葉によって私たちは、みずからのなかで起こっていることをより深く理解する 」
「 うつろう思考や感情は、言葉によって、明確な思考や感情へと変化する」
という箇所に注目して頂きたい。
つまり僕たちは、「言葉」に触れることによって初めて自らの感情や思考を客観的に認識し理解することができるのだ。
この引用は「読む」という視点から書かれたものだが、「書く」という視点でも同様のことが起こる。
ヘッセにとって手紙を書くことは、悩みや不満を吐き出し、気持ちを整理するだけでなく、直面する困難に対する対処法を練り、自分が求めていることを明らかにしていく上でも非常に重要な意味をもった。まさに「自分自身に到達する手段」となったのである。ヘッセにとって、それは作家としての修行にもなった。彼は過敏な神経が受ける外界からの様々なストレスを、表現するということによって乗り越えようとしたのである。
『境界性パーソナリティー障害』 幻冬舎新書 岡田尊司著 P239
ノーベル文学賞を受賞したこともあるヘルマン・ヘッセにとって、「書く」ことは生きるうえでの重要なファクターであった。
ヘッセに限らず、文豪と呼ばれる人々は精神的な不安定さを有している場合が多い。芥川や太宰などは有名だが、昔千円札に採用されていた夏目漱石もかなり不安定な側面があった。
文豪にはそういった傾向がある理由についてここでは語らないが、彼らが富や名声といった外部から与えられるもののためだけに書いていたのではないことは確かだ。
彼らは生きるために書いていたのである。
ヘッセは「書く」ことにさらなる味付けを加える。
ヘッセは自分が味わったさまざまな不愉快な体験を、手紙や日記の中に描写した。その状況だけでなく、心の内面も描いたのである。そうした作業は出来事を客観視し、不愉快さをやわらげるだけでなく、自分というものを見つめるのにも大いに役立ったと思われる。
同書P239~240
ほとんどの人間は自分自身を正確に把握できない。
「自分はこういう人間だ」という認識も、自己のほんの一面に過ぎない場合が多い。
なにより自己というものは年を重ねるごとに変化していくのだ。
したがって不愉快な体験=感情が大きく揺さぶられた体験を自らの内面とともにありのまま書くということは、自らを知るうえで非常に大切である。
自分ではコントロールできない感情=無意識の正体を知ることに繋がるからだ。
自分の無意識の部分を知ることがメンヘラ克服に役立つ

例として、僕が仕事においてほんの些細なミスを指摘され、その場にいた数人の同僚に笑われた時の話をしよう。(ミスなんて日常茶飯事だが)。
あくまで僕の場合だが、その時、僕は泣き出したくなるほどの恥と殴りたくなるような怒りを覚えた。
なぜ恥を感じたのかと言えば、失敗するということそのものが恥ずべきことであるし、至らない自分の姿を他人に見られてしまったからだ。
なぜ怒りを覚えたのかと言えば、些細なミスをいちいち指摘されたうえ嘲笑されたように感じたからだ。
ここまで書いて、「いちいちうるせーんだよ!クソ野郎!」と締め括るのもいい。それだけでけっこうスッとするものだ。だが今回はその先まで見てみよう。
なぜ僕は失敗やそれを見られたことを恥だと感じたのか。なぜ指摘されたことに怒りを感じたのか。そもそも本当に嘲笑されていたのか。
今度は思いつく限りの理由をなにも考えずに挙げてみる。
・完璧であると思われたかった。
・人として見下されているように感じた。
・やはり自分はダメな奴なんだと思ってしまった。
・皆に吹聴されて笑いものにされるかもしれない。
・出世できないに違いない。
・指摘されずとも自分でリカバーできたのに。
・こいつらのことが前から嫌いだった。
あまりに長くなりそうなのでこの辺でやめておく。
これらを見てみると、僕は「完璧主義」で「人の目を気にしていて」「自尊心が乏しく」「人を信用しておらず」「些細な失敗を大袈裟に気にしがちで」「ある面ではプライドが高い」と言うことがわかる。
さらに掘り下げると、
「完璧でないと人から嫌われ蔑まれると思い込んでいる=実は人に好かれたいが、どうしたらいいのかわからない」
「そもそも人を見下している=自尊心が低いのでそうしていないと耐えられない」
「あるいは本心では他人に期待しているが故に他人に怒りを覚えてしまう」
という心理が背後にある可能性に気が付く。
すると次はその原因を探ることが可能になる。
それは親の影響であるのかもしれないし、多感な時期に負った傷によるものなのかもしれない。
こういったことは無意識にプログラムされた考え方なので認識することが難しいが、今回それに気が付くことができた。すると今後は対処の仕方を考えられるようになるのである。
もし、「いちいちうるせーんだよ!クソ野郎!」 の段階でやめていたら今後も同じことを繰り返していたであろうが、そういった感情のメカニズムを知ることで根本からの変革が可能になるのである。
ここまで小難しく考えなくとも、「書く」という行為は隠れていた無意識の部分を吐露し、自分を知り、人生を豊かにするための手助けをしてくれるのである。
精神疾患の治療にも用いられている

境界性パーソナリティー障害の改善において、文章を書いたり、やりとりしたりすることは、重要な役割を果たす。文章を書くことは、前頭前野の機能を高める上で優れた方法である。継続的にそうした作業を積み重ねていくうちに、感情や行動のコントロールがよくなっていく。メールやチャットでのやりとりも、特定の信頼できる人との間で程よい距離を保って用いられれば、大きな支えとなる。
同書P239
※前頭前野は脳の活動性を調節する役割を果たす。
作家の咲セリ女史も境界性パーソナリティー障害からの回復のために書くという行為を活用していたと言う。
彼女は2種類のノートを作っていた。
1つは「何でも書いていいノート」。
これは精神的に不安定になった際、思いついた言葉、イメージ、形にならないもの、それら全てを何のルールもなしに書いていいノートだ。自傷したい衝動などの受け皿としての役目を担っていたそうだ。
もう1つは「認知ノート」。
これはある出来事に対し、事実、どう感じたか、どうしてそう感じたのか、どうすればよかったのか、といったことを書き出し、自らの思考や行動のパターンを冷静に分析するのに使用したものだ。
これらは実際に病院やカウンセリングでも用いられている方法でもある。
書くという行為によって自分を知り、そのうえで改善を目指すのである。
日記でも箇条書きでもなんでもいい。とりあえず書いてみよう。
私小説に見る、主観と客観

私小説というジャンルがある。これは経歴・属性など作中の主人公と作者の間にかなりの共通性があり、作者=小説の主人公と見ることが可能なものを指す(定義は諸説あり)。
私小説を書くには、「書く私(主観)」と「書かれる私(客観)」という二面性が必要になる。
もし客観性を欠いてしまえば、それはただの日記や愚痴になってしまいかねないからだ。
私小説の王道は情痴物である。
さらに言えば主人公は大概ヤバい。
型破りとかいう清々しいヤバさではなく、クズとかキモイとか称されるようなヤバさだ。
例えば私小説の祖と言われる田山花袋の『蒲団』は、花袋の弟子として下宿していた一回り年下の女への想いや嫉妬を描いている(しかも花袋には妻がいる)。
近松秋江の代表作は、家を出ていった妻と間男と思わしき若者との関係を探るべく、夜中に元妻の家を覗こうとしたり、日光まで赴き宿を一軒一軒当たったりする話である。また、今で言うところの風俗嬢的な女性に恋をして嫉妬する話も有名である。
現代では芥川賞作家の西村賢太が有名であろう。
彼の作品の半分は過去に1年ほど同棲した女性との日々を描いたものなのだが、主人公=西村氏のDVやモラハラが酷すぎる。ついでに言うと金銭面でもほとんど相手の女性頼みだ。
関連記事:西村賢太『夜更けの川に落ち葉は流れて』
無論これらはあくまで小説なので、物語の読みやすさや盛り上がりを考慮して良くも悪くも脚色されている。が、私小説を名乗る以上、大筋は変わっていないはずである。
ではなぜこのような人間の醜悪な部分を描いた作品が評価され人気を博していたのか。
理由の1つは、普通の人が悪しきことだと思い込み理性で抑え込んでいる深層の感情を言葉にして表しているからである。
無意識に近い感情を認識し、さらに代弁してもらうことで、共感とカタルシスを覚えているのである。
もう1つは、これらが客観性を持っているからだ。
もし主観だけで書いてしまえば、それは「ワル自慢」の類の陳腐な話で終わってしまう。
が、客観性を有することにより、これらは物語として成立し、受け入れられるのである。
客観性を持つには自分と向き合わなければならない。
そして上記のような作品であれば、その過去の過ちを認めなければならないのである。さもなければ「相手の女性が悪い」という愚痴や恨み節に終始してしまう。
自分の醜悪さと非を心から認めるという、本当に辛く苦しい作業をやってのけているという点が読者の心に響くのである。
話すこともメンヘラ克服のために重要な役割を担う

書くという行為に焦点を当ててきたが、言うまでもなく話すことも重要である。
上辺だけの会話にはさほど意味がないが、腹を割って話したり素直な気持ちを発信したりすることは、自分を知るうえで書くこと以上の効果をもたらす場合がある。
書くという行為には基本的に時間や精神的余裕がある。
しかし誰かと話す場合は反射的なスピードが求められる。
反射は無意識の行為なので、話しているうちにそれまで自覚のなかった自分の気持ちを知ることができるのだ。
「書く」ことのススメ

だが話す行為、あるいはLINEやメールなどには必ず相手が存在するため、相応の気遣いが必要となってくる。
なんでも話せるほど信頼している相手だからこそ敬う必要があるのだ。
思ったことを本当になんでも話してしまって、相手との関係性を壊すことに繋がってしまえば本末転倒である。
よって「書く」という、自分の内面と自由に向き合うことのできる行為が重要になってくるのである。
「病めばmixi」だったあの日々も、ちゃんと糧になっているのだ(友達は減ったが)。
僕のように駄文でもかまわない。
ぜひ思うままに書いてみて欲しい。