西村賢太『夜更けの川に落ち葉は流れて』無頼さに秘めた劣等感と焦燥感

夜更けの川に落葉は流れて

何んと云っても、彼ももう二十二歳になろうとしているのだ。同い年の者は、いよいよ大学も卒業しようと云う時期である。なれば貫多としても、自分もいつまでもこの不甲斐ない、生活とはとても呼べぬような生活をダラダラと続けていていいわけはないとの思いも、さすがに強くなってくる。

『夜更けの川に落葉は流れて』講談社 西村賢太著 P15

どうも、しーたです。

今回は西村賢太の私小説『夜更けの川に落葉は流れて』を紹介します。

作者の分身である主人公の北町貫多の青春時代を描いた同作。

西村ファンであればご存知とは思いますが、彼は本当に生活とは呼べぬような生活をしています。

15で家を出たものの、行く先々でトラブルを起こし職を転々としながらのその日暮らし。金は酒と煙草と風俗に消えボロアパートの家賃は滞納。風呂にも入らず毎日同じ服を着て、布団も持たずトイレットペーパーを枕にする日々

浮世離れした無頼漢といった言葉が似合う彼ですが、その実とても繊細で、描写される心境というのは多くの人がふとこっているものです。

同い年の者は、いよいよ大学も卒業しようと云う時期である。

父親が性犯罪者であり中卒の彼は、常にこの手の劣等感と焦燥感に苛まれています。

ですが彼はその感情を昇華する術を持っていません

学歴、親との関係、なにより彼の稟性が更生への道を阻むのです。

同書には、そんな彼がこれまでも何度かあった「一念発起」をして築地市場で働き始める『寿司乞食』、年越しのための資金を稼ぐべく始めたアルバイト先で出会った女、佳穂との関係の顛末を描いた『夜更けの川に落葉は流れて』、些細なことに激昂し、出来立てのラーメンに青痰と煙草を突っ込ん逃げた店との長きに渡る攻防を語った『青痰麺』の3作が収録されています。

『夜更けの川に落ち葉は流れて』見どころ

露骨なる心理描写

露骨なる心理描写

私小説の魅力は何と言っても「露骨なる描写」。作者=主人公の等身大の心理描写を堪能することができるでしょう。

私小説では、我々が無意識に感じていたとしても上手く言葉に出来なかったり、意識していても恥や醜悪だと思い隠していたりする感情をハッキリと描いています。主人公が生身の人間であるからこそ可能な技法であり、そこに共感を覚えることができるのです。

例えば、トラブルを繰り返してきたツケで主人公の貫多には友人がいません

彼はそれに多少の劣等感や寂しさを覚えることもありますが、一方でそんな自身を「孤高の男」として美化しているところがあります。

この白昼の宴の雰囲気が、彼にはなんとも懐かしくて、そしてうれしかったのだ。

思えばこれは、貫多にとっては実に何年かぶりのこととなる、他者との交わりであった。

友人も知人もいないことに対してはそれなりの慣れがあり、耐性はできているとの自負もあったが、しかしこの、思いがけぬかたちで出来した”飲み会”は、彼に久しく忘れていたその感興を、一気に蘇らせてくるものがあった。

P27~28

ところが「ロンリーウルフな自己像」とは裏腹に、自分を好意的に受け入れてくれる人たちとの交わりを嬉しく感じるのも事実。同書では、そんな矛盾した感情も見事に描き切っています。

硬くコミカルな文章

硬くコミカルな文章

西村小説は一見すると硬く感じます。大正~昭和にかけて活躍した作家たちの影響を受けているため、使用する漢字も言葉も現代では馴染みのないものが多いです。

しかしいざ読んでみると意外にサクサク読めてしまうのが同作者の優れたところ。

その要因の1つがコミカルな描写です。

「魯鈍」という見慣れない言葉を使ったかと思えば、「えらくホットな温もりとスイートな安堵とが胸中に走ってしまった(P166)」なんてえらくポップな表現を多用します。その緩急による独特のリズムが読みやすさに繋がっているのです。

また主人公の行動は無頼でかなり酷いものが多いのですが、それもどこかコミカルなのが特徴。喜怒哀楽がハッキリしており、まるで漫画のキャラクターのような印象を受けます。

無頼さを「ふとこっている」方は必読

生きづらさを感じている人は是非一読してみてください。

( 根っからの善人が読んだら強い不快感を覚えるかもしれません。)