今回のテーマは人間関係をリセットする心理について。
随分と間が空いてしまったが、再び人間関係リセット症候群について語ろうと思う。
しつこいくらいこの話題に関する記事を書き続ける理由。それはきっと僕のなかで人間関係をリセットしまくってきた過去について引っかかっていることがあるからなのだろう。
正直、今までの記事と似たような内容になるのではないかと思っていたのだが、いざ書いてみるとまた違った視点から人間関係のリセットを見ることができたような気がしている。
人間関係をリセットする心理について、引き続き当事者目線および今まで出会ったリセット症候群仲間が語ってくれた心境を交えて語っていく。
わざわざ人間関係をリセットする心理を考える
人間関係のリセットは気軽に見えて案外負担がかかるものである。
連絡先を変更したり引っ越したりした場合、いちいち金融機関などへ届け出る必要があるからだ。SNSのアカウントを削除する程度なら簡単かもしれないが、それでも無駄に手数をかけていることに変わりはない。
ではなぜ人間関係リセット症候群の人々はわざわざそんな手間をかけてまでリセットを行うのか。
それはリセット症候群の患者は逆に「人間が好き」だからではないかと僕は考えている。延いては「人との繋がりを求めている」と言うこともできる。
人間関係をリセットする人の具体的な心理を4つに分けて解説していく。
嫉妬や劣等感
人間関係をリセットする心理として多いのは、嫉妬や劣等感に起因するものではないかと僕は考える。(もちろんいじめをはじめとした直接的な被害が原因の場合もある)
- 人から良く思われたい
- 堕落している自分を知られたくない
- 順風満帆に見える友人に嫉妬してしまう
などがその心理の具体例だろう。
こうした感情を抱いているときには胸が押しつぶされそうな感覚になる。その苦しみから逃れるためにリセットするのである。
事実、リセットを実行し知り合いが誰もいない土地へ越した直後は、それまで感じていた胸の痛みが嘘のように晴れる。一度その快感を知ってしまうと、まるで麻薬のようにリセットを繰り返すようになってしまうのだ。
こうした実体験およびリセット症候群仲間(妙な連帯感だが)の証言から分析するに、人間関係をリセットする者は虚栄心が強かったり、人目を気にし過ぎたりする傾向がある。そうした「他人のなかの自分像」に拘る気持ちが嫉妬や劣等感に変わり、やがてリセットへと繋がるのではないだろうか。
見捨てられたくないから先に見捨てる
人間関係をリセットする心理としてはいわゆる「見捨てられ不安」も大きなウエイトを占める。
見捨てられ不安とは、文字通り親しい関係の人に「いつか見捨てられるかもしれない」という不安を感じる気持ちを指す。
見捨てられ不安が強いと、
- 嫌われたくないから先に嫌いになる
- 「自分が相手にとっての1番じゃない」と感じると防衛のため先にリセットする
といった行動に出るようになりがちだ。
過去に好きな人に見捨てられた経験がある人ほどこうした心理に陥りやすいのではないかと僕は考えている。(現に僕自身が当てはまる)
人間関係をリセットする人のなかにはこのような「人に好かれたい」といった心理があるのではないだろうか。
試し行為の一種
試し行為と呼ばれる行動も人間関係をリセットする心理を分析するうえで重要になるかもしれない。
試し行為とは、理不尽な要求をしたり、不機嫌やわがままな態度を見せたりして相手がそれにどう対応するか(=自分をどれだけ愛しているか)を量る行為である。
もちろんリセットした場合は相手の反応を見ることができないので本来の目的とは異なる。だが、突然連絡が取れなくなった状況において人々がどのようなリアクションをするのか想像することは可能だ。
実際に試し行為を行った際に相手が自分の期待と違った反応を示すことはしばしばある。そのため、むしろ想像のなかに止めておいた方が好都合なのかもしれない。
つまり試し行為としてのリセットにおける心理は、実際の相手の反応は知りたくないが、それでも自分が相手にとって重要な存在であることを妄想のなかで確認したいという自己満足的な要素が強いのである。
価値観が合わなくなった
リセットする人の心理、4つ目は単に価値観が合わなくなったというもの。
大抵の人間は加齢とともに価値観が変化してゆく。するとそれまで付き合っていた人々とイマイチ嚙み合わなくなることがある。
それは恐らくほとんどの人々に起こり得る変化と言えるだろう。そのようなときには、どちらともなく離れていった結果疎遠になるというのはなにもおかしなことではない。
このシチュエーションにおいて症候群の患者が問題視される理由は、その離れ方が大袈裟だからである。リセットという行為は無音のもとに行われるにも関わらずやけに目立つのだ。言い換えれば不自然なのである。
属していたコミュニティと価値観が合わなくなった場合でも、リセットという音のない嵐を巻き起こすのではなく、自然と疎遠になる方法を選択した方が無難と言えるだろう。
リセットする人はもともとドライなタイプなのでは?
ここまで人間関係をリセットする人は実は人が大好き、という仮定のもと、勝手気ままにその心理について語ってきた。
しかし人間関係リセット症候群の本人や被害者の方々は僕のこうした分析に対し否定的かもしれない。
そもそもリセット症候群の患者は生来ドライなのではないだろうか?
それもあり得る。なぜなら僕自身もドライと言われる人間だからだ。
だが、なぜ僕らはドライなのだろうか?果たして生まれたときからすべての患者が人間に対して素っ気ないのだろうか?
そういう人もなかにはいるだろうが、大半の患者にはなにかしらの原因があると僕は考えている。
実体験から心理を分析
もう一度言うが、僕は人間関係をリセットする心理を「実は人が好きだから」と仮定している。それは実体験に基づいているのだと思う。
人間関係のリセットを繰り返した結果友人ゼロおじさんとなってしまった僕にも、若い頃は友達と呼べる人が大勢いた。そんな貴重な人々との関係を自ら放棄してしまったきっかけはなんだったのだろう。思い当たるのは携帯電話にまつわるエピソードだ。
ケータイを持つことが一般的になったのは僕が高校生の頃。(ちなみに当時のケータイはインターネットに繋ぐとバカみたいに高い金額を請求される危険があったのでもっぱら電話かメールのやり取りに使用していた)
このケータイの登場により僕のなかに一つの価値観が生まれた。それは「アドレスの数=友達の人数」というものである。(ちなみにアドレスとはメールアドレスのことである。おじさんたちが若い頃はSNSがなかったのでメールでやり取りしていた)
つまりそれまでボンヤリしていた人と人との絆が可視化されたことになる。
僕はケータイに夢中になった。アドレスを交換する、友人や女の子と電話やメールでやり取りをする。こうした行為をするたび「人から必要とされている」「受け入れられている」といった快感を覚えた。友達のアドレスはまるで宝物のように大切だったのだ。
だが、僕がどれだけ大事に思っていようが関係性というのは変わってゆくものである。久しぶりにメールをした友人から送られてきた「誰でしたっけ?」という返事。なんならアドレスが変わっていて送ることさえできないときもあった。要は相手は僕の連絡先を消去していたのである。
若く純朴だった僕は、こうした出来事に深く傷ついた。まるで少年漫画のように、子どもの頃の友達は一生関係性が変わらないものだと思っていたからである。
そんな経験を積み重ねていくうちに、僕の方から先に相手の連絡先を消すようになった。これ以上傷つきたくなかったのだ。なんなら僕の味わった分だけ誰かを傷つけてやろうという八つ当たり精神も働いていた。
社会人になってからは虚栄心も芽生えた。いや、劣等感といった方が正しい。
大学に進学せず、非正規で働いていた僕は「普通」のコースを外れ底辺の道を進んでいると感じていたからである。
そんな自分を知られたくなかった。いつからかあんなに嬉しかった友達からの連絡が怖くなっていた。そんな些細なことなど気にしない友人もいたのに、当時の僕はその区別がつかなくなっていたのだ。
好きなのに好かれなかった経験。
嫌われるのが怖いという気持ち。
僕は人間関係リセット症候群に陥った。
人間関係をリセットする人の心理の根底には他人への期待や依存がある
きっと当時の僕は人が好きで、いろんな人と親友と呼べるくらいに仲良くなりたかったのだ。
だが、僕の気持ちがどれだけ強くてもその願いは叶わなかった。そんなのは当たり前のことだ。仲良くなりたいと言いながらまるでゲームのように簡単にリセットしてしまうのだから。
人間関係をリセットする心理の根底には、他人に対する過度な期待や依存がある。多くの人の「1番」になりたいという過度な期待。どんなことをしても笑顔で受け入れて欲しい、助けて欲しい、という依存。
そうした自己中心的な心理が人間関係のリセットという行為に繋がるのではないだろうか。
これが僕の一つの結論である。(※なおいじめや家庭環境の問題でのリセットは構わないと思っている。)